昭和52年11月03日 朝の御理解



 御理解 第6節
 「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」

 神様を身近に頂くというても、これ程の神様を頂いたら、おかげが受けられますですね。神様が、いよいよかばいにかぼうて下さるでしょうし、いよいよおかげを、限りないおかげを下さることでしょう。お話を聞けば、やはりこの天地に充満してござる神様だと分からして頂くのですけれども、実感としてね、神様をこのように感じる。「目には見えぬが神の中を分けて通りおるようなものじゃ」と。「御免なさい、御免なさい」と言うて通っておるようなもんじゃと。
 ここ一両日頂くご理解は、ここの所の実感が出来たら、と言う事だと思うんです。いわゆる「二人行脚」であります。いわゆる神様と何時も共にあるという実感。ところが痛いのが治らなければ、神様を感じ切らない。願ったことが成就したりしなければ、神様を感じ切らないというのが、私共凡夫の信心じゃないかとこう思うんです。痛いのが治って初めて神様を感じる。痛い間は神様の段じゃない。口には「神様、神様」と苦しいから唱えてますけれども、神様を感じ切ってないわけです。
 「痛いのが治ったのが有り難いのではない。いつもまめなのが有り難いのぞ」というその有り難いというものに浸っておれていないと言う事です。「道を歩いておろうが、畑で肥をかけておろうが」どんな言うならい汚いことをしておろうが、やはり「神の中を分けて通りおるようなものじゃ」と。ですから、これはどういう難儀の中にあってもということも言えるわけです。「もう神も仏もあるものか」と例えば不幸が続いたりしますと、そういう風に申します。
 普通ではもう本当に、神も仏もないものかと、思うような中にあっても、神様の御守護の中にあるんだという、実感なんです問題は。神様の前に出て、御祈念をさせてもらう。何か空々しい御祈念。神様を実感し切ってない。けれども何か本当にこの、まあ実感としてです。神様を身近に感ずる祈りなんかが、御祈念なんかが出来た時です、おいさみを頂くのは。神様ともうその実感が、そのまま交流する。そういう実感が、何時も頂けると言う事なんです。
 だから私共例えば、朝洗顔をさせてもらう、冷たい水の中に手をこう入れたとき、だけだけが実感ですよね。「冷たい」と感ずる時に、やはりここに神様を感じます。ですから、ふとこうお水を押し戴かなければおられない心も頂けれる。「冷たい」とこう感ずる。水を感ずる。肌に感ずる時に、おかげ、いわゆる神様を感ずる。次にはふとこう、一すくいのお水をすくうて、こう押し戴かなければおられない。
 そういう実感がね、何でもない時に、いわゆる神の中を分けて通りおるような実感が頂けれる手立てというか、工夫と言うかね、わが心からも練り出さしてもろうて行かなきゃならん。昨日午後の奉仕をさして頂いておる時に、上野先生がここへお届けに出て参りました。「親先生、もうこの頃体がこんなに不調でありますから、皆さんのような御用も出来ず、本当に相済まんことだ」とこう言う風に申します。
 その時に私は、その時に頂いて、ここに書き留めたばっかりのところへ、そのことがどういうことかと言うと「枯れ木にも品というものありにけり」と言う事を頂いた。枯れた木ですね。もう本当に焚物のごたるふうにしか見えない木もあります。いわゆるそりゃ早う取り除かねば見苦しいという枯れ木もあります。けれども枯れてはおるけれども、やはり気品を持っておる枯れ木があるという。その品というものは見栄や形じゃない。心から言うならば発散されるもの。
 何とはなしに品が備わる。内容が良くなるから、品が良くなるのです。そこで例えばそうして成程御用も出来んのだけれども、自分の心の中には有難い勿体ない。その有難い勿体ないが、上野先生の周辺にです。人が助かる程しの言うならば素晴らしいと言うか。昔昔というか今の中村歌右衛門のお父さんに当たる、やっぱり歌右衛門ですね。先代の歌右衛門。「動かぬ名優」という定評があったんです。
 足がもう全然立たないわけです。けれども、その衣装を着けて舞台に座っておるだけで、言うならば十分な演技にものを言わしたわけです。「動かぬ名優」という。言うならば、その動けないけれども、動かぬ名優、演技そのものが舞台一杯に演技する以上の演技を、そこに観て、観る人をして、「名人だなあ名優だなあ」と思わせるようなもの。上野先生が御結界に座ってござると、座ってござるだけで人が助かる。何とはなしに、言うならば、信心の気品というものが溢れておる。
 「上野先生、そういうおかげを頂かなければいけないよ」と。「もうそのことにあんたは専念されるんだ」他の者はバタバタしよる時には、神様感じ切ってないことが多い。今も言うようにね。冷たい水に手を差し込んだ時に、冷たいと思う時に、神様を感じる程度のことだけれども、本当に体もこんなに不自由なんだけれども、神様のおかげを頂いて、まあこうして御用が出来ておる。本当にそのことが有難い。なかなか先生は、やはり若い時から根性の人でした。
 今でもやはり、そういうやはり根性の人ですけれども、その根性というのが信心に向けられた時に素晴らしいんです。そしてそれなら、神様に心を向けると、どう言う事になってくるかというと、心の中に頂けるのは「有難い」であり「相済まん」であり「勿体ない」である。そういうものが四六時中、自分の心から離れんですむ、それこそ二人行脚であります。神様我と共に何時もある工夫がなされておる。そこに枯れ木に、枯れ木と言う事は心が枯れたという意味ではなくてです。
 人並みの御用も出来ないと言う事を指したんだと思うんです。けれどもかくおかげを頂いておるというその信心の喜びがです。気品が溢れるように現われてくるならばです。「もう上野先生ばかりはいつ見たっちゃくうっとした顔をてござる」というのじゃなくてね。本当に上野先生に接しただけで、言うならばおかげの頂けれると言う様な、今取次者を目指さなければいけないと言う事だと、まあ言うて話したことです。
 言うならば「動かぬ名優」です。そういう私はおかげを、皆さんに誰にでも頂いてもらいたいと思う。それには、神の中を分けて通りおるような実感。これがもう、その実感、もう説明のしようがないですよね。神様に通う程しの実感。「真に有難しと思う心すぐにみかげのはじめ」とおっしゃる。そういう実感に溢れる「有難し」であったら、おかげを受けます。それこそ朝露を掻き分けて、こう道を歩くようなもの、裾の方は朝露でしっとり、こう濡れる。そういう実感。
 そういう実感が、何でもない道を歩いておっても、肥をかけておっても、言うならば、普通普段の何でもない時に、いや何でもない時ではない、汚いことをしておる時でも、神様を心に感じれれる信心。「天地金乃神の広前は世界中であるぞ」と。世界中であることが分かるだけではなくて、自分のおるその周辺だけでも、いわゆる、神様を感じれれるおかげを頂きたい。
 昨日、若先生たち一行が帰って参りました。また賑やかになりましたわけですが。月次祭の日のご理解を、ビデオで撮ってございましたから、昨夜、御祈念が終わりましてから、「皆で頂きなさい。するとあんたたちが東京におって八日間か、おりましたでしょうか。その八日間の、あなたたちの八日間の信心が分かる。そして、どう言う様な事でこう言う事になったのかと言う事も分かるから、一遍頂きなさい」と言うて、また改めて昨日皆で頂きました。
 末永先生と若先生とが話したということです。「もうまるきり親先生は、俺達の何かかんば見通しに見てござったごたる感じだね」と言うて、昼テープを聞いておったそうです。そして、テレビで目のあたりにお説教をそのまま頂かせてもろうて、それを実感したと。「なあにも親先生には説明もしてないのにも関わらず、お話を頂いておると、あの七日間の東京での逐一を、親先生が見通しに見抜いてござったような御教えだったね。お説教だったね」と言うてまあ昨夜も話しておりました。
 そう言う事は、どう言う様な事だろうかと。言わば、私の心の世界は、もうここにおってすでに東京におったと言う事になるのじゃないでしょうかね。これはもう実感なんです。ですからせめてね、自分の家だけなりとも、せめて自分の周辺だけでも、神を感じれれる信心。痛いからお願いをする。おかげを頂いた。初めて神様を感ずる。と言うのではなくて、何でもない時には、本当言うたら、より神様を感じれれる信心。
 私は思いますのにね、おかげを頂くから有難いと言う信心は、長く続かないですね。それだけでは。お参りは続きますけれども、信心が続かないです。もうどうしても信心は、もう言うなら、去年の私と今年の私というものに格段の差が出来ておる。まあそれより小切りに言うならば、一ヵ月前の私と一ヵ月後の私、信心のなかった時代の私と、頂くようになってからの私というものがです。格段の差が出来ておらなければ、出来れて行く位でなからなければ、信心の楽しみはないです。自分の信心が豊かになる。
 自分の信心が大きくなる。いわゆる自分の心が大きくなる。自分の心が豊かになる。自分で時たまではあっても、自分で自分の心が拝みたいような有難い心すら、自分の心へ感ずる。それが段々本当のものになって行くことが楽しみという信心にならなければ、まあ合楽通いの言うなら値打ちもないのです。そういう信心を目指して初めて、今日の私が皆さんに聞いて頂いたところが分かるのじゃないだろうかと思う。
 おかげを頂いた時だけ、有難いという神様ではなくて、それとは反対の時でも、有難いと感じれれる信心。それは同じ自分の心でそれを感ずるのですから、その心が有難うなっていっておらなければ、有難いと感じられんのです。痛いのが治って初めて有難いと感じるくらいの信心では、今日のご理解が分かったとは言えないと思う。成程ただ理屈の上ではです。成程この宇宙に天地に、言わば充満してござるのが、天地金乃神様であるとするならです。成程神様の中を分けて通るようなものじゃなあ。
 なるほどそうだなあ。そこまでは分かるけれども、実感として神様をそこに感じれれる。その神様はどういう、神様かというと親神様。親が憎うて子供をたたく親はありゃしません。叩く時にはより言うならば、這えば立て、立てば歩めというような親心が、場合には叱りもすりゃ、たたきもするという、その親心がいわゆる一つの情感となって、自分の心の中にひびいてくる。そこに昨日から頂きますように、そういう親神様を私共が身近に頂いた時にです。
 神様は限りないおかげと、限りないおかばいが頂けれると言う事でしたね。本当にお風呂へ入って、それこそ、加減の良いお風呂の中で、「ああ極楽」と感ずるでしょう。その本当に、「ああ極楽」とこう感じれれるその実感がです。寒い中にあっても、暑い中にあっても、それを感じれれる信心。それにはです。やはり「信心とは日々の改まりが第一」であり、「信心とは本心の玉を研くものぞや」と言われる。
 その研くことに改まることに、言うなら自分が研いただけは、改まっただけは有難くなって行けれる、変わって行けれる自分というものが、楽しい信心にならなければ、そういうおかげ。「私は天地の親神様をこれほど親神様と思うとる」と言うだけではなくて、そういう研き改まらせて頂くところから、生まれてくる「有難い」。その有難い心でキャッチする神様。またそういう心で唱える天地金乃神様であり。
 天地の親神様であって初めて、言わば願わずにはおられん。すがらずにはおられんという、言うなら情感も生まれて参りましょうし、成程、神様がこの様におかばい下さって、出来もせんのに出来たかのようにしておかげを下さると、いよいよ有難うなってくるということになるのです。今日は言うなら皆さんに、純信仰と申しましょうか純信心。いわゆる信ずる心。「真心」「神心」を今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。